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空撮西日本

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沖縄旅行の帰路、飛行機から撮った写真です。ほとんどの人は座席で寝てたと思いますが、私は滅多に見れない光景に目を輝かせて、小さな窓に映りこむ雄大な風景に見入って、カメラのシャッターを押し続けていました。 ↑沖縄上空 沖縄上空は厚い雲に覆われていて、最後にその姿を拝むことは出来ませんでした。 ↑屋久島 屋久島最高峰で九州最高峰でもある、宮之浦岳(標高1936m)らしき山容が見えます。いつの日か、あの山頂に立ちたいです。 ↑種子島 ↑鹿児島湾  手前が大隅半島で奧が薩摩半島です。そして、噴煙を上げる桜島の姿も見えます。地上からだと分からない日本列島の地形も、上空からだとはっきり分かります。こうしてみると、日本て案外小さいんだなと思ってしまいました。実際に地上を走ると、日本て案外広いんだなと思ってしまうでしょうが。汗 ↑四万十川 御存知、高知県西部を流れる日本有数の清流です。 ↑高知市 上空から見ると小さな街ですが、実際に地上を走ると大きな街です。 ↑石鎚山脈 このどこかに石鎚山もあるはずです。 ↑剣山地と奥に徳島平野 ↑徳島平野と吉野川 この後、飛行機は徐々に高度を下げて、無事、神戸空港に着陸しました。帰路の飛行機は滑らかに着陸して、振動も小さかったです。パイロットの腕の差でしょうか? ↑沖縄土産  帰宅後、これらを味わいながら、沖縄旅行の余韻を楽しみました。

琉球ガラス村・波上宮

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琉球ガラス村は、沖縄県糸満市にあるガラス工房です。ここは沖縄観光の定番で、大量のガラス製品が展示されているだけでなく、自分だけのガラス製品を作る事も出来ます。 ↑琉球ガラス村 ↑ガラス工房 申し込みをすれば、ここで自分だけのグラスを作る事が出来ます。しかし、この日は数時間待ちだったので、私は断念しました。 ↑ガラスショップ  ここでは美しいガラス製品が所狭しと展示されています。私は、大きなグラスを一つ購入しました。その製品は、沖縄の海を思わせる鮮やかな青で、波の泡立ちを思わせる気泡が散りばめられていました。これにビールを注いで飲むと美味しいでしょうが、落として壊すと悲しいので、記念品として飾って置きます。 ↑第一牧志公設市場  この日は沖縄旅行最期の夜で、那覇の国際通りを散策して周り、初日には入らなかった第一牧志市場に入って見ました。市場中にある食堂はどれも、大変な賑わいでした。 ↑ソーキ丼  ソーキとは豚のあばら肉の事で、骨付きの場合もあります。市場で注文しましたが、肉は美味しかったものの、全体的にはやや物足りなかったです。10点満点で5点。 ↑御菓子御殿  ここでは沖縄土産の定番となっている、紅いもタルトが売られています。賑やかな国際通りの中でも、目を引く建物です。沖縄土産と言えば、ちんすこうも有名ですが、私はあまり好きではないです。この日は、那覇市内のビジネスホテルで早めに休んで疲れを癒す予定でしたが、市街にパトカーのサイレン音がひっきりなしに響いていて、なかなか眠れませんでした。大晦日と言うことで、どこかの馬鹿が暴れているのだと、容易に想像がつきました。しかし、今回の沖縄旅行では結局、一回も熟睡出来なかったです。 ↑波上宮(なみのうえぐう) 波上宮は、沖縄県那覇市にある神社です。沖縄旅行最終日は元日だったので、初詣に行きました。しかし、本殿前には参拝者の長い列が出来ていたので、お守りだけ買って初詣を済ませました。 ↑波上宮  境内には、多くの出店が開いていて賑わっていました。しかし、少数ですがガラの悪そうな若者連中が座り込んでい

摩文仁の丘

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摩文仁の丘は、沖縄県糸満市にある戦跡である。この地は、沖縄戦の末期、南端に追い詰められた日本軍と沖縄県民数万人が最後を遂げた場所である。 昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、南北に進撃を開始する。北部での戦闘は4月16日に終了し、本島北部は米軍に制圧されたが、日本軍主力が待ち受ける南部では、4月8日を境にして、戦いは激烈なものになってゆく。戦闘の焦点となったのは、日本軍沖縄守備隊、第32軍の司令部が置かれている首里であった。第32軍司令部は、琉球王国の居城であった首里城の地下50mにあって、あらゆる砲撃に耐えうる事が出来た。 主防衛線は、西は安謝川から首里城を経て、東の与那原に達する、沖縄本島を横断する10kmの線で、高地と地下陣地を巧妙に組み合わせた非常に堅固な造りであった。また、日本軍砲兵の火力は比較的、充実しており、これが米軍に多大な出血を強いた。しかし、米軍は、沖縄の制海権、制空権をほぼ完全に握っており、その海軍と空軍は、苦戦する陸軍に圧倒的な火力援護を提供した。日本軍は善戦を重ねるも、その兵力、弾薬は乏しくなる一方であった。5月4日、第32軍は、死中に活を求めて総攻撃を実施したものの、米軍の凄まじい砲爆撃を受けて、成すすべなく撃退された。 5月22日、首里戦線の両翼を担う、西の拠点、安里52高地(米軍名 シュガーローフヒル)と、東の拠点、運玉森(うんたむまい 米軍名 コニカルヒル)が突破され、首里は包囲されつつあった。このままでは、第32軍は首里一帯、数キロ円内に閉じ込められる。第32軍の消耗も激しく、陸軍正規部隊、沖縄現地招集兵、海軍後方部隊を含む、11万人いた将兵の内、6万人が戦死し、残存兵力は5万人となっていた。第32軍は、このまま首里で玉砕するか、知念半島に撤退するか、南端の摩文仁に撤退するか、の選択を迫られる。 そして、第32軍は、更に戦闘を引き延ばすには、摩文仁への撤退が望ましいと判断し、この22日より移動を開始する。だが、この決定は、沖縄南部に避難していた多数の沖縄住民を、戦火に巻き込む事も意味していた。第32軍は、首里に5千人の後衛を残すと、折からの豪雨に紛れて段階的に撤退していった。しかし、5月26日には米軍に察知され、猛烈な砲爆撃を浴びせられて、大勢の

おきなわワールド

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おきなわワールドの説明より、まずは、前日に泊まった宿の愚痴から始めさせてください。 奥武島(おうじま)という沖縄県南城市にある小島で宿を取ったのですが、1万円渡すと「お釣り無いからどこかで崩してきて」と言われる、そして、お茶無し、テッシュ無し、歯ブラシ無しに加えて、部屋に長い髪の毛が幾つも落ちている、家の中を犬が歩き回っている、シャワーは途中から水に変わる、夜に何かが窓をピシピシ叩いて薄気味悪い(朝になって、パイプを巻くひもがほどけて、風で窓を叩いていたのが分かった)で過去最凶級の宿でした。 早朝、さっさと脱出しようと車を見たところ、近くの木に泊まっていた鳥が大量の糞を投下して、白い雨だれ模様の塗装が成されていました。置き土産まで頂いて、誠にありがとうございます!しかし、これは借り物の車だったので、手を汚しながら必死に拭き落としました。海の家○けぼの荘という宿で、素泊まり3500円でしたが、それでも高くついたと感じました。海の側にある宿という事で癒しを期待していましたが、悪夢に変わりました・・・ ふ~~~ッ 気を取り直し、日記を続けます。おきなわワールドは、沖縄県南城市にあるテーマパークです。ここには国内最大級の鍾乳洞、玉泉洞や、古い町並みを再現した王国村、ハブショーが行われているハブ博物公園があります。また、琉球ガラス作りの体験や沖縄の伝統芸能エイサーの演舞が見れて、ハブ酒やシーサーなど大量のお土産も売られている、総合テーマパークです。 ↑おきなわワールド ↑玉泉洞 ↑玉泉洞 ↑玉泉洞 ↑玉泉洞 ↑玉泉洞 ↑玉泉洞 内部はなかなか広く、ライトアップもあって神秘的な空間が広がっていました。私好みの鍾乳洞です。 ↑シーサーの置き物 ↑王国村の古民家 ↑ハブ酒 これは本格的な造りで値段が張ります。私は、もうちょっとお手軽な琉球ハブボールを買い求めました。琉球ハブボールにはハブのエキスと13種類のハーブが入っており、ほど良い甘さで飲みやすかったです。 ↑エイサー広場

斎場御嶽(せーふぁーうたき)

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斎場御嶽(せーふぁーうたき)は、沖縄県南城市にある史跡で、琉球王国最高の聖地とされていた。この地では、琉球神道における最高神職、聞得大君(きこえおおぎみ)就任の儀式と、王国の祭事が行われた。聞得大君は、国王の姉妹など王族の女性から任命され、国王と王国全体を霊的に守護する存在とされた。 ↑久高島を望む 天気が悪かったので、久高島の姿は不明瞭でした。久高島は神の島とされており、琉球王国時代には数々の神事が行われていました。歴代の琉球国王は2年に1回、久高島参詣を欠かしませんでした。 ↑御門口(うじょうぐち) 参道への入口です。 ↑大庫理(うふぐーい) 大広間との意味合いがあって、拝所となっています。 ↑艦砲射撃の穴 沖縄戦の傷跡がここにも残っています。 ↑寄満(ゆいんち) 豊穣に満ち満ちた場所との意味合いです。当時の琉球王国は貿易で栄えていたことから、世界中から集められた交易品がここに捧げられたのでしょう。 ↑アマダユルアシカヌビーの壺  2本の鍾乳石から滴り落ちる聖なる水を受けるため、2つの壺が置かれています。 ↑正面が三庫利(さんぐーい)で右側が、ちょうのはな それぞれ拝所とされています。斎場御嶽で最も奥まった所にあって、ここで最重要の神事が行われたのでしょう。 斎場御嶽は琉球王国最高の聖地と謳われているだけあって、神秘的な雰囲気が漂っていました。かつてここで、荘厳な儀式が執り行われた事を想像しながら、散策してみてください。