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山中城 2

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山中城訪問の続きです。 ↑弾薬庫と兵糧庫跡 本丸直下にあります。 ↑武将達の墓 宗閑寺の境内に佇んでおり、その由来によれば、山中城の戦いで戦死した北条方の部将、松田康長、間宮康俊とその一族、箕輪城主の多米長定が祭られており、豊臣方の部将、一柳直末の墓も並んで祭られているとのことです。 ↑岱崎(だいさき)出丸 ↑岱崎出丸から駿河湾を望む 山中城からは、西方から進軍して来る豊臣軍の様子が、つぶさに目撃出来たはずです。北条方では、戦いを前にして武者震いする者と、圧倒的な敵軍を前にして恐怖に震える者との二通りに分かれた事でしょう。 ↑岱崎出丸の堀 ↑岱崎出丸の堀  素人目ですが、この付近の堀は浅く、土塁の高さも足りないように感じます。往時は逆茂木(木製バリケード)を堀の外に置いて、侵入し難くしていたんでしょうが、渡辺了らはこうした所を乗り超えたんじゃないでしょうか。 ↑岱崎出丸 ↑櫓台 ↑擂鉢(すりばち)曲輪 北条方の部将、間宮康俊は一族と共にこの曲輪に立て籠もって激しく抵抗しました。彼らは80挺の鉄砲に加えて、数挺の大鉄砲も有しており、その大鉄砲の威力は、豊臣方の防弾用の竹束さえ撃ち砕いたと云われています。 ↑擂鉢曲輪の堀  豊臣方の中村隊が攻めかかって来た所です。かつての激闘に思いを馳せながら散策すると、感慨深いです。 山中城の規模は大きく、並大抵の戦国大名では、せいぜい遠巻きに囲むしか出来ないんじゃないでしょうか。天下人、豊臣秀吉だからこそ、火力と人数に物を言わせた強襲が出来たのでしょう。ただし、その犠牲は計り知れないです。

山中城 1

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山中城は、静岡県三島市にある山城である。戦国関東の覇者である北条氏によって築かれ、障子堀を始めとする北条流築城術の粋が見られる城である。また、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍を迎え撃って、激闘が繰り広げられた城としても知られている。 永禄年間(1558~1570年)、山中城は北条氏康によって築かれた。箱根山中にあって東海道を取り込む形となっており、本拠地、小田原城の西方を守る、最重要の支城と目されていた。天正15年(1587年)、豊臣氏との緊張が高まってくると改修が始まり、天正17年(1589年)には、岱崎(だいさき)出丸を増築して更に防御力を強化する。しかしながら、防御工事は不完全なまま、天正18年(1590年)の小田原征伐を迎える事になる。時の山中城主は松田康長で、増援として玉縄城主、北条氏勝とその与力、間宮康俊ら4,000人が入った。 豊臣軍の総勢は22万人余で、その内、3万5千人が山中城の攻略に当たった。主将は豊臣秀次で、中村一氏が岱崎出丸を担当、一柳直末が三ノ丸と岱崎出丸の結節点にある大手口を担当、第二陣として山内一豊隊が続いた。西ノ丸には、徳川家康麾下の部将、本田忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世らが当たった。天正18年(1590年)3月29日早朝、豊臣方による鉄砲射撃によって戦いは始まり、城方もこれに負けじと激しく応射した。豊臣方は射撃に晒されながらも、じりじりと掘際ににじり寄って、攻撃配置に付く。まず、中村隊が動いて岱崎出丸の先端にある擂鉢(すりばち)曲輪に猛攻を加える。 岱崎出丸の城兵は、擂鉢曲輪を救援すべく移動を開始した。中村隊の家臣、渡辺了(わたなべ さとる)はこの隙を突いて塀を乗り越え、岱崎出丸に侵入、山中城一番乗りを果たす。それを後方から確認した豊臣秀吉は法螺貝を吹かせて、総攻撃を命じた。一柳隊も突撃を開始し、直末は陣頭指揮を執って大手を突破せんとしたが、その直後、鉄砲に撃たれて直末は討死にしてしまう。一柳隊は指揮官の討死で混乱を来たし、死傷者が続出する。渡辺了も大手を突破せんとしたが、南櫓と三ノ丸からの猛射を受けて釘付けにされた。渡辺了に付いて来た8人の内、4人がここで討死し、付近には50~60人もの一柳隊の死傷者が倒れていた。 この間、中村隊は岱崎出丸と擂鉢曲輪の掃討を