山中城 1

山中城は、静岡県三島市にある山城である。戦国関東の覇者である北条氏によって築かれ、障子堀を始めとする北条流築城術の粋が見られる城である。また、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍を迎え撃って、激闘が繰り広げられた城としても知られている。



永禄年間(1558~1570年)、山中城は北条氏康によって築かれた。箱根山中にあって東海道を取り込む形となっており、本拠地、小田原城の西方を守る、最重要の支城と目されていた。天正15年(1587年)、豊臣氏との緊張が高まってくると改修が始まり、天正17年(1589年)には、岱崎(だいさき)出丸を増築して更に防御力を強化する。しかしながら、防御工事は不完全なまま、天正18年(1590年)の小田原征伐を迎える事になる。時の山中城主は松田康長で、増援として玉縄城主、北条氏勝とその与力、間宮康俊ら4,000人が入った。



豊臣軍の総勢は22万人余で、その内、3万5千人が山中城の攻略に当たった。主将は豊臣秀次で、中村一氏が岱崎出丸を担当、一柳直末が三ノ丸と岱崎出丸の結節点にある大手口を担当、第二陣として山内一豊隊が続いた。西ノ丸には、徳川家康麾下の部将、本田忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世らが当たった。天正18年(1590年)3月29日早朝、豊臣方による鉄砲射撃によって戦いは始まり、城方もこれに負けじと激しく応射した。豊臣方は射撃に晒されながらも、じりじりと掘際ににじり寄って、攻撃配置に付く。まず、中村隊が動いて岱崎出丸の先端にある擂鉢(すりばち)曲輪に猛攻を加える。



岱崎出丸の城兵は、擂鉢曲輪を救援すべく移動を開始した。中村隊の家臣、渡辺了(わたなべ さとる)はこの隙を突いて塀を乗り越え、岱崎出丸に侵入、山中城一番乗りを果たす。それを後方から確認した豊臣秀吉は法螺貝を吹かせて、総攻撃を命じた。一柳隊も突撃を開始し、直末は陣頭指揮を執って大手を突破せんとしたが、その直後、鉄砲に撃たれて直末は討死にしてしまう。一柳隊は指揮官の討死で混乱を来たし、死傷者が続出する。渡辺了も大手を突破せんとしたが、南櫓と三ノ丸からの猛射を受けて釘付けにされた。渡辺了に付いて来た8人の内、4人がここで討死し、付近には50~60人もの一柳隊の死傷者が倒れていた。



この間、中村隊は岱崎出丸と擂鉢曲輪の掃討を進め、出丸の守将、間宮康俊を討ち取った。次に中村隊は三ノ丸突入を窺ったものの、城方の反撃は激しく、大手付近で膠着状態に陥った。その頃、徳川隊は犠牲を厭わず広範囲から西ノ丸に猛攻を加えて、これを乗っ取った。山中城の主将、松田康長は岱崎出丸に加えて西ノ丸も落ちた事で敗北を悟り、渋る北条氏勝を説得して城から脱出させた。しかし、これを見た城兵達に動揺が走り、持ち場から逃げ出した。渡辺了と中村隊はこの隙を突いて三ノ丸に突入、徳川隊も二ノ丸に突入した。



山中城も残す所、本丸のみとなるが、康長と侍衆200人余は北西隅にある土塁と櫓に立て籠って最後の抵抗を試みる。まず、渡辺了と中村隊が攻めかかって激しく槍をぶつけ合っていたところ、二ノ丸を落とした徳川隊も本丸に殺到して来たことから、敵味方共、土塁から押し出されて堀に転がり落ちて行った。乱戦の最中、松田康長が討死し、ここに山中城は落城した。時刻は夕刻を迎えようとしていた。両軍の死傷者数は不明だが、5千人を超えたと思われる。短くも激しい戦いであった。山中城はほどなく廃城となった。





↑山中城の地図




↑三ノ丸堀




↑田尻の池




↑二ノ丸土塁




↑二ノ丸土塁





↑西ノ丸



↑西ノ丸障子堀


左奥にあるのが西櫓で、徳川軍が最初に攻めかかった所です。




↑西ノ丸障子堀




↑左が本丸で右が北ノ丸


最終局面では、この土塁から両軍の武者が組み合いながら転げ落ちたのでしょうか。





↑本丸


この付近で松田康長は討死したのでしょう。




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