摩文仁の丘

摩文仁の丘は、沖縄県糸満市にある戦跡である。この地は、沖縄戦の末期、南端に追い詰められた日本軍と沖縄県民数万人が最後を遂げた場所である。



昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、南北に進撃を開始する。北部での戦闘は4月16日に終了し、本島北部は米軍に制圧されたが、日本軍主力が待ち受ける南部では、4月8日を境にして、戦いは激烈なものになってゆく。戦闘の焦点となったのは、日本軍沖縄守備隊、第32軍の司令部が置かれている首里であった。第32軍司令部は、琉球王国の居城であった首里城の地下50mにあって、あらゆる砲撃に耐えうる事が出来た。


主防衛線は、西は安謝川から首里城を経て、東の与那原に達する、沖縄本島を横断する10kmの線で、高地と地下陣地を巧妙に組み合わせた非常に堅固な造りであった。また、日本軍砲兵の火力は比較的、充実しており、これが米軍に多大な出血を強いた。しかし、米軍は、沖縄の制海権、制空権をほぼ完全に握っており、その海軍と空軍は、苦戦する陸軍に圧倒的な火力援護を提供した。日本軍は善戦を重ねるも、その兵力、弾薬は乏しくなる一方であった。5月4日、第32軍は、死中に活を求めて総攻撃を実施したものの、米軍の凄まじい砲爆撃を受けて、成すすべなく撃退された。



5月22日、首里戦線の両翼を担う、西の拠点、安里52高地(米軍名 シュガーローフヒル)と、東の拠点、運玉森(うんたむまい 米軍名 コニカルヒル)が突破され、首里は包囲されつつあった。このままでは、第32軍は首里一帯、数キロ円内に閉じ込められる。第32軍の消耗も激しく、陸軍正規部隊、沖縄現地招集兵、海軍後方部隊を含む、11万人いた将兵の内、6万人が戦死し、残存兵力は5万人となっていた。第32軍は、このまま首里で玉砕するか、知念半島に撤退するか、南端の摩文仁に撤退するか、の選択を迫られる。


そして、第32軍は、更に戦闘を引き延ばすには、摩文仁への撤退が望ましいと判断し、この22日より移動を開始する。だが、この決定は、沖縄南部に避難していた多数の沖縄住民を、戦火に巻き込む事も意味していた。第32軍は、首里に5千人の後衛を残すと、折からの豪雨に紛れて段階的に撤退していった。しかし、5月26日には米軍に察知され、猛烈な砲爆撃を浴びせられて、大勢の将兵や住民達が泥濘の大地に倒れていった。


5月31日、第32軍は撤退を終えて、3万人(陸軍正規部隊は1万人)が八重瀬岳、与座岳に新たな戦線を構築したが、この撤退時に1万5千人余の兵員を失った。6月5日、米軍は、第32軍最終防衛線への攻撃を開始し、再び激闘が展開される。日本軍は疲弊しきった兵力で奮戦を重ねるも、6月17日には八重瀬岳、与座岳も陥落して、住民共々、南端の摩文仁の断崖へと追い詰められていった。海上からは米軍艦艇による砲撃を受け、陸上からも迫撃砲、野砲による砲撃を受け、上空からも航空機による爆撃を受けて、摩文仁一帯は人々が逃げ惑い、吹き飛ばされる阿鼻叫喚を呈した。


6月20日、米軍はついに、第32軍司令部のある摩文仁岳を取り囲んだ。そして、昭和20年(1945年)6月23日早朝(22日とも)、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇(ちょう いさむ)中将の自決をもって、沖縄日本軍の組織的戦闘は終結した。沖縄戦において、日本軍は当初11万人の兵力を有していたが、10万人余が戦死し、住民9万人余が死亡した。米軍は陸海軍含めて54万8千人を動員し、その内、1万2,520人が戦死、5万5,112人が負傷、2万6,211人の戦闘疲労症を出した。






↑平和祈念公園


この丘には、日本全国の戦没者の慰霊碑が置かれています。平和祈念公園はとにかく、広大です。






↑摩文仁の海岸 東方


この日見た太平洋は穏やかに見えましたが、それでも泳ぐには波が大きく、危険だと思いました。摩文仁に追い詰められた人々の中には、海岸に沿って北部に逃れようとした人もいましたが、大半が銃撃を受けて倒れ、太平洋の荒波に吞まれて命を失う人も多かったと云います。ひめゆり平和記念資料館で見た資料にも、学徒が大波に吞まれて死亡したとの記述を度々、目にしました。





↑摩文仁の海岸 西方 


戦争中は、この様な崖の隙間に、人々がひしめきあって避難していたのでしょう。捕虜になるのを恐れた若い女性が、崖から身を投げる光景もありました。



↑黎明之碑


摩文仁岳の山頂にあります。



↑摩文仁岳から北を望む 


戦争中は、見渡す限りが砲爆撃による荒野となっていたはずです。






↑第32軍司令部壕跡


この付近で、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇中将が自決を遂げました。



↑平和の像


沖縄戦に動員された男子学徒 鉄血勤皇隊を祀った像です。第32軍は沖縄の旧制中学校から14歳~16歳の男子学徒、1,780人を招集し、戦闘に動員して約半数が戦死しました。




↑摩文仁の井戸 


摩文仁には井戸がこの一か所しかなく、兵士や住民は米軍の攻撃の合間を縫っては、水を汲みに来ました。しかし、海上には米軍艦艇がひしめいており、この井戸も昼夜を問わず、見張られていました。しかも、周辺の樹木は砲爆撃によって薙ぎ払われており、身を隠す場所もありませんでした。米軍艦艇からの機銃掃射を受けながらも、飢え渇いた人々は水を求め、井戸にひしめきあっていたそうです。井戸の周りには死体が折り重なっており、そのため、この井戸は死の泉とも呼ばれました。それでも、人々は生きるため、命懸けで水汲みに走りました。




↑管理部の壕跡


人々は水を汲んだ後、この壕で炊事を行っていたそうです。その水や飯を上にある壕まで運び入れる事を、飯あげと呼んでいました。これは、銃砲弾が飛び交う中、必死で急坂を駆け上がる命懸けの作業でした。沖縄師範学校の男子学徒で構成されていた、鉄血勤皇師範隊がこの飯あげの任に当たっていたそうです。元沖縄県知事の太田昌秀氏によれば、上空から焼夷弾攻撃を受けて、管理部壕には黒焦げの焼死体が折り重なっていたそうです。この時の焼夷弾攻撃は大規模で、丘陵全体が炎に包まれたと云います。壕の上部が黒染んでいるのは、その時の攻撃の跡かもしれません。また、ここで、鉄血勤皇師範隊の学徒が自決したとあります。





↑摩文仁の海岸


現在では奇岩そびえる景勝地となっていますが、戦争中には、多数の水漬く屍が漂っていたでしょう。




↑平和の礎(いしじ)


日本軍、米軍、英軍、沖縄住民、台湾出身者、朝鮮半島出身者など敵味方を含む、沖縄戦での戦没者、また、1931年から1946年までに戦没した沖縄出身者が石板に刻銘されています。現在は、24万人分の石碑があって、その数に圧倒されます。





↑沖縄県平和祈念資料館


正面奥に見えるのが、沖縄県平和祈念資料館です。年末だったので、残念ながら閉館でした。摩文仁の丘は美しい場所でしたが、言いようのない物悲しさが漂う場所でもありました。


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