網走監獄

 明治元年(1868年)、徳川幕府による支配が終わりを迎え、明治政府による新たな時代が幕を上げる。以降、明治政府は、武士階級の解体を進め、富国強兵に邁進する。しかし、それに反発する士族達の反乱が相次ぎ、大量の国事犯が取り押さえられた。全国的に監獄が過剰収容となったため、明治14年(1881年)、政府は、北海道に集治監を設置する事を決定した。この政策は、政府にとって危険分子である、国事犯を収容するだけでなく、彼らに北海道を開拓させ、ロシアの脅威に備える目的もあった。



明治14年(1881年)に樺戸集治監(樺戸郡)、明治15年(1882年)に空治集治監(三笠市)、明治18年(1885年)に釧路集治監(川上郡)が、その分監として、明治23年(1890年)に釧路監獄署網走囚徒外役所(網走市)が設けられる。これが網走監獄の始まりである。そして、同年には早速、囚人1,200人が送り込まれ、網走から札幌を結ぶ道路開削工事に駆り出された。囚人は2人ずつ鎖で繋がれ、昼夜兼行で工事が進められたが、栄養失調や怪我等で囚人達はバタバタと倒れていった。1,000人を超える囚人が工事に従事していたが、囚人、看守を含めて、200人以上が死亡した。そうした囚人達は鎖を付けたまま、道路脇に埋められ、土を被せられて土饅頭(どまんじゅう)となった。後年、これらの塚から、鎖の付いた人骨が出土した事から、鎖塚と呼ばれるようになった。



北海道の囚人は、この他にも炭鉱労働や、硫黄採集といった過酷な労働に駆り出され、多くの犠牲者を出している。また、話はやや逸れるが、明治45年(1912年)に着工された常紋トンネル工事では、本州から集められた労働者達が、過酷な肉体労働に駆り出されて多くの死者を出している(タコ部屋労働)。現場ではリンチが横行し、スコップで撲殺された労働者が人柱としてトンネルの壁に埋められたと言い伝えられている。後年の発掘調査では、60体にも及ぶ遺骨が発見されている。また、トンネルの壁からも、頭蓋骨に損傷のある遺骨が発見された事から、人柱の言い伝えが真実である事が分かった。北海道にある、真っすぐな道路、線路はこの様な囚人や労働者の犠牲の上に成り立っているのである。



明治36年(1903年)、網走監獄に改称される。明治42年(1909年)、網走監獄は火災に見舞われ、独居房一棟を残して全焼する。明治45年(1912年)、3年の歳月をかけて復旧工事が完成する。この時に、現在、見られる西洋風の庁舎や放射状の舎房が建設された。大正11年(1922年)、網走刑務所に改称される。昭和48年(1973年)、網走刑務所の改築計画が公表される。網走新聞社主の佐藤久は、貴重な歴史建造物が失われる事を憂いて、移築保存を提唱する。それを受けて財団が発足し、徐々に建造物が移築されて行き、昭和58年(1983年)、博物館網走監獄として開館した。






↑正門



今回、折角、網走監獄を訪れたものの、時間が足りずに駆け足で巡っており、幾つかの建物は未訪となっています。門の奥にあるのが庁舎です。







↑独居房





↑浴場


当時の監獄では、入浴が許可されるのは月1回のみで脱衣から入浴、着衣まで15分と定められていました。暑い盛りの6月~9月は月5回の入浴が許可されていました。





↑浴場






↑五翼放射状房






↑中央見張所



この一カ所で、五つの舎房を監視出来る造りとなっています。





↑第一舎





↑房内







↑舎房と天井





↑囚人の食事風景





↑囚人の食事




↑鉄丸


逃走の恐れのある無期徒刑囚や、重罪、軽罪を犯した囚人で器物を破損したり、暴行、脅迫を行った者に装着されたとあります。




↑休泊所


網走と札幌を結ぶ中央道路開削の際には、この様な休泊所を建てて囚人は寝泊りしていました。三角形の造りは、積雪に備えてのものでしょう。




↑休泊所内部



寝床は板張り、枕は釘打ちされた丸太、布団は薄い柏布団と呼ばれる代物でした。




↑網走監獄


北海道と言えばまず、広々とした開放感溢れる風景が思いつきますが、その裏の歴史を垣間見れる、貴重な博物館でした。時間不足で、隅々まで見学出来なかった事が悔やまれます。また、何時か再訪したいと思います。

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