オシンコシンの滝・硫黄山・摩周湖

 オシンコシンの滝は、北海道斜里郡斜里町にある、落差50mの滝です。日本の滝百選に含まれており、駐車場から歩いてすぐの所にあります。





↑オシンコシンの滝


この日はかなりの暑さでしたが、滝の周囲には冷気が漂っていて、心地良かったです。




↑オシンコシンの滝





↑オシンコシンの滝


天然のミストシャワーを浴びれます。オシンコシンの滝を後にすると、硫黄山へと向かいました。




硫黄山は、北海道川上郡弟子屈町にある、標高521mの火山である。アイヌ語では、アトサヌプリ(裸の山)と呼ばれていた。ここでは、明治初期から昭和30年代にかけて、硫黄が採掘されていた。明治10年(1877年)、釧路の網元、佐野孫右衛門によって、採掘が始まった。明治18年(1885年)、北海道の実業家、山田慎(やまだ まこと)によって、硫黄山が買収されると、釧路集治監の囚人が安い労働力として動員されるようになった。しかし、採掘作業は過酷を極め、栄養失調の上、亜硫酸ガスと硫黄粉によって、両目を失明する者が相次いだ。



操業開始以来、半年間で300人の囚人の内、45人が病体となり、42人が死亡した。明治19年(1886年)、硫黄山に外役所が設けられ、より本格的に採掘が行われた。明治20年(1887年)、安田財閥の安田善次郎によって、硫黄山は買収される。明治21年(1888年)、実業家でクリスチャンの原胤昭(はら たねあき)と釧路集治監典獄(監獄の所長)の大井上輝前(おおいのうえ てるちか)は、硫黄山の悲惨な労働を目の当りにして衝撃を受け、直ちに囚人労働を中止させた。明治30年(1897年)、合葬するためにこの地を発掘したところ、300体もの遺骨が出てきた。その中には、手錠を掛けられたままの遺骨もあった。






↑硫黄山


この距離から玉子が腐った様な、硫黄の臭いが漂って来ます。





↑硫黄山


この付近では、目も沁みて痛くなって来ます。そして、足元では熱湯がグツグツと噴き出しています。かつての囚人の労働の苦しみが、僅かですが、伝わって来ます。多くの観光客はこの地で悲惨な出来事があった事など、知らずに観光している事でしょう。かく言う私も気付きませんでしたが、外役所の跡地はすぐ側にあるとの事です。





↑硫黄山


硫黄山の近くには、硫黄山レストハウスがあるので、帰りに温泉卵を味わうのをお勧めします。硫黄山の次は摩周湖へと向かいました。






↑摩周湖


第一展望台からの眺めです。摩周湖は、北海道川上郡、弟子屈町(てしかがちょう)にある湖で、アイヌ語でカムイトー(神の湖)と呼ばれています。昔は透明度世界一でしたが、最近は徐々に悪化傾向にあるようです。それでも日本有数の透明度を誇っています。




↑摩周湖


こちらは、第三展望台からの眺めです。左方奧には、日本百名山の斜里岳らしき山が窺えます。





↑摩周湖


風の無い日は、湖面が青い鏡の様になって、最も見応えあるのですが、生憎、この日は風が強く、湖面が波立っていました。





↑摩周湖


中央の島は、カムイシュ島(神となった老婆)で、奧の山は摩周岳(アイヌ名カムイヌプリ 神の山)です。摩周湖を訪れるのは、子供の頃からの夢でしたが、ようやく叶って感無量でした。





↑展望台からの眺め


周辺の景色も雄大でした。






↑民宿の夕食


「民宿ニューはとや」で頂きました。山菜の天婦羅が美味しかったです!ここのご主人は独特なキャラクターで、最初はぶっきらぼうな感じがして悪印象を抱きましたが、話をしている内に気さくなおじさんだと分かって、好印象に変わりました。私が東京出身の江戸っ子ですか?と尋ねると、札幌出身の蝦夷っ子だと返されました。また、ご主人は、「折角、北海道に来たのだから、道路はゆっくり走りなさい。警察に捕まってしまったら、楽しい思い出も台無しになってしまう。出しても、制限速度の10Kmプラス程度にしておきなさい」との助言を頂きました。この言葉を心に留めておいて、真っすぐな道路も飛ばし過ぎず、今回の北海道旅行は、無事故無違反で終える事が出来ました。


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