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勝連城

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勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にある山城である。城は、北に中城湾、南に金城湾に挟まれた勝連半島の丘陵上にあって、眼下に海が広がる風光明媚な城跡である。 勝連城は、14世紀初頭、勝連按司(かつれんあじ)によって築かれたと推測されている。歴代城主の中で最も有名なのが、第10代勝連按司の阿麻和利(あまわり)である。1454年、王位継承をめぐる王族の内乱、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」を経て、尚泰久(しょう たいきゅう)が第6代国王となる。しかし、彼の権力は不安定で、急速に力を増しつつあった阿麻和利が最大の脅威となっていた。 そこで、尚泰久は、長女を阿麻和利に娶らせて懐柔を図ると共に、実力者である護佐丸の娘を正室に迎えて、彼に阿麻和利を牽制させた。1458年、護佐丸は中城城にて、阿麻和利に対抗する兵馬を整える。しかし、阿麻和利はこれを逆手にとって、護佐丸が王家に対する謀反を企んでいると讒言する。これを受けて尚泰久は、阿麻和利を総大将に任じて、護佐丸を攻撃させた。護佐丸は身の潔白を証明すべく反撃もせず、妻子と共に自害した。 首尾よく宿敵を討ち滅ぼした阿麻和利は、続いて那覇の王府を急襲せんとした。だが、阿麻和利の妻で尚泰久の娘であった、百度踏揚(ももとふみあがり)が王府に走って急報を伝えたので、その謀反は明らかとなった。尚泰久は討伐軍を差し向けて阿麻和利を撃退し、続いて勝連城を攻め立てて、これを攻め滅ぼした。以後、勝連城は廃城となった。これが琉球王国の正史が伝える歴史であるが、逆臣とされる阿麻和利は勝連では名君と称えられており、忠臣とされる護佐丸は実際に謀反を企んでいたとの説もある。 ↑勝連城 ↑右旋回の階段 ↑二の廓石垣 ↑一の廓を望む ↑二の廓 ここには城で最も重要な施設とされる、殿舎がありました。 ↑一の廓から北を望む ↑一の廓から東を望む 正面奥には海中道路が走っています。両側が海という開放感溢れる道で、沖縄本島屈指の景観の良さでした。 ↑一の廓から南を望む ↑一の廓から西を望む ↑

古宇利島

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古宇利島(こうりじま)は、沖縄県国頭郡にある小島で、エメラルドグリーンの海と白い浜辺が広がる、観光名所です。 ↑古宇利大橋 ↑古宇利大橋 橋の向こうが古宇利島です。海の美しさは沖縄でも指折りですが、生憎の曇り空で、爽快さを満喫する事は出来ませんでした。次に橋を渡って、古宇利島オーシャンタワーに向かいました。ここからは、 周辺の海や古宇利大橋を見渡す事が出来ます。 ↑古宇利島オーシャンタワー 券売所から自動カートに乗って、タワーに移動します。ほとんどのカートは、家族連れやカップルが乗り込んで楽しそうな表情をしていましたが、私は1人、ムッとした表情で進んで行きます。     /\_ __/ヽ    /,,,,,,,,ノiヽ,,,,,,,,::\ .   |::(●),ン < 、(● 、:|   |   ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::| .   |  r、_,ィェ、_,ゝ .:::|    \   `ー'´  .::::/ ,,.....イ.ヽ`ー `ニ´ ―ノ゙-、 :   |  '; \_____ ノ.| ヽ i     |  \/゙(__)\,|  i |     >   ヽ. ハ  |   || ↑幸せの鐘 この場所にはやはり、家族連れやカップルばかりです。そして、皆、幸せの鐘を打ち鳴らします。 私、「かあちゃん、おら来るとこさ、間違っただ・・・もう、田舎さ帰りてえだ!かあちゃーーーーん!!!」  _| ̄|_    //ヽ\  |      '|/ / ノ  "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ  |__|'' ̄!  !    /            丶 |    ,‐´ .ノ''   /  ,ィ             \    ヽ-''"   7_//         _/^ 、 `、 ┌───┐  /          / 、_(o)_,;j ヽ| |┌─,  .|  /.           -   =-{_(o

今帰仁城

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今帰仁城(なきじんぐすく・なきじんじょう)は沖縄県国頭郡今帰仁村にある、山城である。琉球王国成立以前に存在していた、北山王国の本拠であり、沖縄本島北部の要衝でもあった。 今帰仁城は、12世紀末に築城され、その後、整備拡張されて、14世紀始めには現在の形になったと見られている。14世紀の中国の史書には、北山王として、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3王が登場する。そして、この頃の沖縄は、北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山が支配する、三国鼎立(さんごくていりつ)状態にあった。 しかし、1416年、中山の尚巴志(しょうはし)によって、北山は攻め滅ぼされてしまう。北山は沖縄北部を支配して、面積的には三山最大であったが、北部は山岳と密林が大半を占めているので、人口的には最小であったと思われる。そのため、人口に勝る中山によって、押し潰されたのだろう。 尚巴志によって琉球統一が成されると、今帰仁城には北山監守(ほくざんかんしゅ)が置かれて、北部地域を管理した。しかし、1609年、薩摩島津氏の侵攻を受けて、今帰仁城は灰塵と化し、1665年、監守は廃止された。以後は、拝所、祭祀の場となって、多くの参拝者を集めた。 ↑今帰仁城入口 ↑ 平郎門 ↑平郎門裏側 ↑大庭へと続く道 右側に旧道があって、そちらは防御上、曲がりくねった形状となっています。 ↑北西を望む 左奥に見える建物は、なきじんぐすくショップで、ちょっとした食べ物やお土産が売られています。 ↑大庭(うーみゃ) 正殿、北殿、南殿があったと推測される、重要な場所です。 ↑火之神の祠 沖縄の城は統治の場であるだけでなく、祭祀の場である事も多いです。 ↑主郭の石垣 ↑志慶真門郭(しげまじょうかく)  ここには、城主に仕える、側使えの人々が住んていたと考えられてます。 ↑平郎門から続く石垣 ここの石垣は規模が大きく、見応えがあります。 沖縄の城は総じて海が見渡せるので、景色が爽快で

美ら海(ちゅらうみ)水族館

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沖縄旅行2日目は予約しておいたレンタカーに乗って、沖縄北部に向かいました。まずは、沖縄県国頭郡恩納村にある景勝地、万座毛に立ち寄りました。 沖縄は那覇近郊にモノレールが走っているだけで、南北を結ぶ鉄道は存在しません。なので、北部に行こうと思えば、車を借りた方が良いです。そして、外国人観光客の多くもレンタカーを借りて移動しているので、目の前の車が思わぬ行動を取る場合があります。この様に沖縄は車社会で、都市部は渋滞気味です。高速道路は存在していますが、最高速度は80㎞に制限されており、一般道路も最高速度40㎞の所が多いです。 ↑万座毛 ↑万座毛 美しい海と奇岩の織り成す風景が広がっていましたが、個人的にはそれほど印象に残りませんでした。次に、沖縄観光の目玉、美ら海(ちゅらうみ)水族館に向かいましたが、その前に早めに昼ごはんを取っておくべく、沖縄そばの店に立ち寄りました。 ↑ソーキソバ大盛 玉家そばJr.(たまやそば じゅにあ) 名護店で頼みました。800円だったかと。甘味のあるスープに、トロトロに煮込まれた豚肉との相性がぴったりでした。これにご飯を少し付ければ、腹一杯になります。10点満点で7点。 ↑美ら海水族館 美ら海(ちゅらうみ)水族館は、沖縄県国頭郡本部町にある海洋博公園内の水族館です。 まずは、巨大なジンベイザメの銅像が出迎えてくれます。旅行時は冬場で、シーズンオフのはずでしたが、それでも物凄い人出で、駐車場や館内は大混雑でした。これで5月の連休や8月のシーズンを迎えると、どうなるのでしょう?汗 ↑サンゴの海  サンゴを背景に色鮮やかな魚達が泳ぐ様は、まるで動く絵画のようでした。 ↑熱帯魚の海 ↑熱帯魚の海 ↑クラゲの水槽 ライトアップされたクラゲが、ゆらゆら動く様は幻想的でした。 ↑チンアナゴ 巷では可愛らしいと人気があるそうですが、個人的には海蛇に見えて気持ち悪かったです。 ↑黒潮の海 これが美ら海水族館最大の目玉、ジンベイザメが泳ぐ大水槽です。

首里城

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首里城は、沖縄県那覇市にある平山城で、かつて南西諸島に存在していた琉球王国の王都として栄えた城跡である。那覇港を見下ろす丘陵にあって、日本、中国の築城技術を融合させた、独特の建築様式が用いられている。 城の創建年代は定かではなく、 14世紀末 には存在していたが、 1429年 に琉球統一を果たした尚 巴志(しょう はし)によって、本格的な築城が始まった。 15世紀初期 に内郭が築かれて、ここに正殿、北殿、南殿、奉神門などの中心施設が置かれ、 16世紀中期 に外郭が築かれて、4つの門が設けられた。 首里城は、王とその一族が居住する政治的中心地であり、また、王国の祭祀(さいし)を司る宗教的中心地であり、那覇港を通じて日本、中国、朝鮮、東南アジアとの中継貿易を行う、経済的中心地でもあった。 明治12年(1879年) 、明治政府によって琉球王国は廃され、首里城も明け渡されて沖縄県が設置された。 昭和20年(1945年) 、太平洋戦争時には、首里城地下に壕が掘られて、陸軍第32軍の司令部が置かれた。その影響もあって、米軍の激しい砲爆撃を受けて、地上の建物群は焼失した。 尚、首里城は 2020年 までに5度、焼失している。 ① 1453年 、王位争いである、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」が起こって焼失。 ② 1660年 、焼失。 ③ 1709年 、焼失。 ④ 1945年 、太平洋戦争の戦火を受けて焼失。 ⑤ 2019年 、焼失。 南国の青空の下、鮮やかな朱色に彩られた正殿は、沖縄の象徴であり、人々の心の拠り所でもあった。その再建が待たれるところである。 ↑守礼門 ↑歓会門 ↑瑞泉門 ↑西を望む ↑石垣 ↑南殿跡 広場の奥に正殿がありました。なんとも無残な状況です・・・ ここに来る時に乗ったタクシーの運転手によれば、首里城に向かう観光客の数は激減しているとのことで、付近の道路や駐車場も空いていました。首里城の案内役をしておられた、地元の方々も表情に影が差しており、やるせない思いを抱えているようでした。 ↑焼失跡